2011年10月30日日曜日

東 京 都 建築 映画

高松、直島でのサイドストーリーとして、artistの杉本博司さんと、建築家の安藤忠雄さんの、仕事、自伝にぐっと生で近付こうとした。
そういうことについて、東京でこの興奮を話すにも、中々相手が見つからなない。
(いやいるんだけど、矛盾だけど、もっとそういう興奮を共有したい、すべきだ、とか傲慢に思ってしまうわけ。でも、それは反省する必要もない。誰かに媚びうる必要なんてない。)
ふさわしい場所も見つけ難い。そんなことよりも多くの人はAKBとかの話を好むのだ。芸能人とか好むのだ。田舎根性。
建築が、街を作っていく姿に僕は興奮するけど、彼らはかわいらしい女の子がアイドルとして笑顔を振りまくのを拾うことに走り回ってエネルギーを費やす。それだけのことか。それが通過点でなく終着駅。

見た目は似てても、まったく価値観はちがってきている。他の国の人だって、同じ価値観を持ってることも知ってるんだから、日本人だからといって同じだとは思わないことに慣れていかないといけないのだ、これからは。世界は変わりつつある。いや、きっと急速に変わってるんだ。ペリーは何百年も、前の話だ。もうとっくのとうの話。話がとってもそれた。カーブ、広島カープの佐々岡投手。

その他にも僕はこの旅で、from Japanのクールなプロフェッサーを再認識、やっと確認出来たと思っていて、
彼らに視線を注げば希望が見える、その背中が輝いてる。
メディアは、うまくスポットライトをずらしてばかり。たとえばショーを観にいっても、TVをつけてもスポットライトを当てる場所を勘違いしてるか、誤っているかにしか見えなく、不快で、落ち込む、絶望的、come to the hell、でも何も言わない。言わない感。いや、聞こえない感。言っても伝わらない感。それこそ絶望感。
いつだって、他人こそが、偶然の音楽を鳴らしうると思うが、馴れ合いばかりにすがる、、それもわからなくもない、だってさみしいし。
希望はあるんだけど、集中してないと見損なう。
もし、集中力や忍耐にかければ、自分だってAKBの一員に捉えられる蟻地獄。そのまんま一生を過ごし、それでいいなんて言うんだろう。
感じる以上に厳しい寒さ、でも乗り越えたら快感がありそうだ。
映画をとることが出来なくなってしまった場所。うまく撮影が進められない、役者がいない、いやいるんだ、きっと。やたらセリフの多い脚本。照明をうまく当てれない。なぜ?フィルムだけはくるくる回っている、くるくるくるくる。溜まるフィルム、いつか大きな火事を起こす着火材。編集するには量がありすぎ、編集もどこか違ってる。。。

京都にはきれいに歴史が保存されており、直島はうまく現代のやり方で現代と戦ってるように見える場所。
東京で、何に視線を注げばいいかわからない時に、京都では慌てず歴史に視線を注ぐことが出来る。
確かに、音楽をイヤホンで聴くなら、東京は時に中毒的に最高であるとも言えるが。

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