2017年1月28日土曜日

1月末

なんというか進ませなきゃいけないことが本当にもたもたと遅れをとっていく。一方で、じっくりやりたい自分の制作の方にも手をつけていて、それをするともっとそこに時間を注ぎたい気もしてくる。
1月ということで、気持ちは今年からの真っ白な部分への抱負をめいいっぱい詰め込む、今のうちにイメージを膨らませておく気持ちで臨んだのでした。
2月に入ったらあっという間に舞台も本番だ。
だけど、今回の本番はまた少しいつもと取り組み方とかも違っているパターンだ。

今日はパーティーだった。
パーティーでのふるまいって難しいっちゃ難しいし、そんなのないっちゃそんなのないとも言えるし、でも今年は多くのパーティーにも行きたいと思うんだよな。
一方で振り切ったところの時間も持ちつつ、パーティーにも行ったりして、よくわからなくもしていきたい。
全部。

しかし、今年は新たに、気持ち新たに行く気で満々だ。
出会えるかな、、それしかない、で勇気とか現実の努力とかそういうやつ。

2017年1月25日水曜日

2つの少年

銀杏boyzとgoing under groundのライブを観てきた。
トワイライトとか銀河鉄道の夜とか、高校生の頃多摩川を走る電車越し聴いていた。
その時、僕はその映画の中にいたんだ。
まったくこじらせやがって、、なんて言葉言えたらふさわしそうでぴったりしそうだけど、やれやれまだこじらせてるから、なんも言えんわ。
でも今日見れて、なんでこんなに実際会うのに時間かかったんだろう。それはチケットとらなかったからで。
宇宙と時間が決定したんだって言っておこう。いずれにせよ会った今夜。

ちがう見てたんじゃない、ここにどうやっているかを考えていたんだ、ずっと。
それが今のぼくをつくった。
僕は今、なるべく、いようと思ってる、で、いれると思ってもいる、結構最強。
今夜ライブ見て、僕はそうやってそこでもいることができた、だから少しさよならでもあった。
そう、だから最強の自分は手に入ったからあとは努力してやれるようにする、手を変化させ武器にするみたいにして、それで道を切り開いてく

さようなら
そして、みんなハロー!



って一度上のとこまで書いて付け足し、
彼らがいなかったら僕は窓の方を見て空想にふけるってことも少なかったかもしれない。
夜の多摩川の先の空を見上げたりも少なかったかもしれない。
なぜ、夜空を見上げてしまうんだろう、若い人たち。
僕にとってはわかんないけど、それが映画につながったんだと思う。
フィクション的な世界。
何か月が出たり、そこを電車が走ったり、草っ原に腰をかけたり、チケットを握って上映を待ったり、まだ会ったことのない、会うこともないかもしれない誰かへ想いを飛ばしたり、高校に通いながらも他の光景をいつも待っている自分がいたり。
それがなんか映画にするしかなかったんだ。
もう一回、夢を見るために。
何回も頭にイメージを抱いて生きているって、それは何回も同じ映画を見に生きに来てるみたいだまるでって思った。
どこかからやってきて。

何か形に僕だってできたらってことを考える。

2017年1月21日土曜日

man and woman

背負い投げ、したくなるような人生。いやもっともっと、裏と表を反転させるようなことをしてやりたくなるような自分の歩みとかがあったとして。
でも、結構僕はお酒飲んでない時に沈むことがあって、お酒を飲むと大体調子がいくらかよくなる時間が出来る。今日は打ち上げのご飯ご馳走になってたくさんのお酒を飲んで、最寄り駅までの電車をなくして40分くらい歩きながら、音楽をかけて帰って来た。
そしたらお酒と重なって、なんか昨日のことなんかちょっと笑えるくらいに、新しい未来に少し期待してしまうのだった。音楽をもう一回、その状態で再生することでまた生きれるような感じがした、って言っても、29年間自体が失敗だったって思うことだってあるのにそれが反転してしまう瞬間を時間をまだまだ生んでくれたりすることのコメディーっぷり。
それもこれも最近聴いてるmy little loverのおかげなのかもしんない。
だけど作った彼らの間にだってあれやこれやがあったことはwikipediaで確認出来る、だけどそこで確認出来ない素敵なことだって彼らにあったはずだ。美しき幸せとは永遠であるかもしれないし、永遠ではないかもしれない。
しかし僕は今どっちだっていいと思う、生きることは重なっていくことである、いつも人類に言い切ることは出来ないのだから、どっちも許すしかない。
そしてもう一回再生する。
今日は行けるかも知んないの連続を生きる。イェイ

2017年1月14日土曜日

コンティキ

コンティキという映画を借りて見た。DVDはずっと1年中見ている、昨年は大体150本くらい。見ているのか、見ていないのかくらい覚えてないものもあるけど、時間軸としてたとえば何かご飯を食べてる時に見ている。
コンティキというのは、実際にあった話で文明がどこから来たのかを証明するために当時の材料を用いて船ではなく筏で南米から南太平洋の島々に流れ着くことができるかということを実際に試した冒険家たちの話だった。
そして主人公のトールは泳げないということの上に、それでも筏に乗っていく決心をしたということだった。
昔、部屋にチェゲバラの印刷された布を張って飾ったことがあった。
今はしなくなってしまったけど、、今でもそういうものを見た時に自分の人生が果たしてあっていたのかを疑っていきたい、段々とそういうのが抜かれていくような感じがする。
それは少し危険なことのようにも思える、だってまだ何も達成していないのに。

2017年が始まってもう13日も過ぎてしまった。1月は大いにこれからの抱負を詰め込めれる真っ白なページだと思う。だから今年もそうだけど、何年後かはどうなるのかも含めて、もっとイメージをしていかなきゃと思った。そして一方で、何が起きるかわからないというそわそわもあって、よし。

2017年1月10日火曜日

風邪ひきて

風邪をひいて3日間近くも寝込んでしまった。朝、行けるかなぁと思って風呂場で見る体は骸骨のように白く、あっという間に肉や筋肉を失ったかのような具合だった。
sons wo:の新作上演に備え、羊をめぐる冒険を読み返す。これを読んだのは何度目だろう、僕は結構初期の村上春樹の作品の方が好きかもしれない。より物語的な内容だと思う、たまに絵が入ってくることもあり絵本のようにイメージのページをめくるように読んでいる感じがある。
そういえば、途中まで一緒に活動を共にしていた相棒ともう5年くらい、何かを作る上でのやり取りとかしていない。思えば19ぐらいから強い付き合いの関係でいた月日だった。そんな彼の助言もなく、そこから先はずっと自分の決定でやってきた。その前は、結構彼のツッコミが入っていた。思えば人生において、そんなに他人からのツッコミがあるなんてことも珍しいことだろう、、彼だって相当なものをかけてツッコミをしていたんじゃないだろうか、と今になって振り返ってみたりする。彼とヨーロッパを回ったのが21歳の頃だった。
今年こそは旅にようやく出れそうだ。
1人で旅をした人はいつも羨ましい、その人が自分で手に入れた風景の宝を持っているから、それは見せる必要もなく、ただそこにあるとこれ以上ないロマンなのだ。

行き詰まりを感じているのでなんとか打破したい。

2017年1月3日火曜日

廻転忍者の新年会ということで、コウさん、ゆうたさん、北斗さん、そのガールフレンドのジーナと5人で集まった。
自分1人だけ後輩というこの感じが懐かしかった。高校生の頃はいつもメンバーでいれば自分1人だけ後輩という感じだったから。その時に、学校の外でそんな先輩たちと一緒にいることはやっぱり中々気持ちのいい優越感を多少なりとも感じていた。
若かったんだ。しょうがない。w
久しぶりに会うのは北斗さんとゆうたさんで、それぞれやっぱりまた違うことをしているのが素晴らしかった。
僕も随分、離れたところに行ってしまってるのだけど、同じじゃないのもいい。
ジーナと少しだけ英語でしゃべった、人柄もあると思うけど日本だとこっちの方がマジョリティーだから向こうがこんなダメダメな英語でも聞いてくれて少ししゃべれた。でもそれ以外にもみんなで笑ったり楽しかったんだ。
少し勇気づけられもした。ハンサムで親切なんだから大丈夫と確かに言っていた、その場では照れてしまって聞き流すようにしたけど、そんなこと外国の視点から言われたら、その分世界の広さがあるのだから可能性は残っているような気さえしてしまうからさ、勇気もらっちゃったよ、そんなささやかなことでも世界のイメージは広がった。
大事なのはイメージが広がって、出来そうだと動き始める余地を広げることだからさ。

帰りにmy little loverのhello,againをリピートしまくって帰った。
なんか、とても少年のようなおセンチに包まれまくった、小龍包くらい。
行けそうな気がする。
音楽がずっと昔から自分に行けそうな気を与えていたんだ。また音楽が流れてる最中の振る舞いをずっと試してきていんだと思う、そのこととダンスが繋がったんだ。
段々と年を重ねながらも、何度も少年の後を辿るように巡らすことだと今は思ってる。
僕にとっては思い出からも、少年や少女がその時、どんな風に世界に対して立とうとしていたかが重要なんだ。
その手に剣を持てるかもしれないんだから。

2017年1月1日日曜日

2017

2017年、年が明けました。今年も年を越すように走った。昨年は個展を完成させるために海まで走り切った。今年は行けるところまでと思っていたけど、走ってるうちに行けそうな気がして行くことに切り替えた。後半はロマンチックな目標なんかボロボロになって、クソみたいなこと思いながら江ノ島まで辿り着いてやろうとしていた。考える時間を持とうと最初走り出すのに、最後の方身体はボロボロで用意してきた考え事について考えるというより、地獄と天国を歩いている、とかSEEDAの曲の歌詞とかあのバトルつぽい感じのことや、ぶっ飛ばしてやる、みたいな感情が巻き起こって、とにかく完走しようと、バトルしていた。そう、走ってる最中に具体的な2017について考え予定たてようとかイメージ持とうと思ったのに、走り切ることに目の前の敵にいっぱいいっぱいになり、身体もボロボロになっていった。その事実が素晴らしいと思った。見事に打ち砕かれて、残ったことはでも確かな実感としてある、物理的にも。そんな積み重ねが改めて大事だぞ、と最初に確認することが出来た。いくらかは助かりそう、そしてこれはすぐに逃げていくだろう。

辿り着いた海は、真っ暗で向こうからやってくる。真っ黒と足元に来る波は向こうで繋がっていて、その上には星が図形を結ぶような配置で宇宙から輝き、その真下に自分がいるその場所は街灯が連続し道を作る海の街だった。灯台からまわって照らすライトが、リズムを一定で刻んでいく、海に辿り着いた自分がトリュフォーの映画を思い出していた。何回もこうやって海まで辿ってきたけど。映画のことを考えているのに、そんな、街と海と宇宙と砂浜を歩く少しくたびれた身体と呼吸がここにあるこのライブが凄いと思った。生きていること、考えていること、歩いて寒くてはぁはぁ言って目で見て耳できいていること全部がいっしょになって存在している今がただすごかった。
僕はこの時、生きていた。

ここまでもフィクションかもしれない、世界を生きていた。


だけど、海に1人で辿り着いたのに、海はまるで自分を待っていると思っていたのに多くの人で溢れていた、みんなが大体誰かたちとつるんで集まっていた。駅に着いても同じだった。みんなは誰かと集まっていて自分だけがボロボロの走るためだけにきたような服装だった。やばそうな奴とかって思われてるんじゃないかとか思ったり、一方ででも余裕でもあった。自分だけが1/1に江ノ島に来ることをなめてるような奴みたいだと思った。逆に言えばなぜみんな正月をもっとなめてかかんないだろうとも思った。少しだけ自由な気がした、それは久しぶりの感じでもあった。
少しだけカッコよくできた気がする。そこには誰もいなかった。